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今回からコラムとしてF1に関する解説や紹介記事を書いていきたいと思います。

記念すべき第1回目は赤い跳ね馬「フェラーリ」の歴史について解説していきたいと思います。

スクーデリア・フェラーリとは

画像は「wikipedia」より引用

 

イタリアの自動車メーカーであるフェラーリですが、モータースポーツにも積極的であり、F1参戦の歴史も長く、1950年から始まった「F1世界選手権」にも初年度から参加している唯一のチームです。

チームの正式名称は「スクーデリア・フェラーリ」といい、現在はシャシーとエンジンを内製するフルコンストラクターチームとして参戦しております。

ちなみにチーム名の「スクーデリア」とはイタリア語で「チーム」という意味があります。

 

この記事を執筆している2020年現在で最多となる16回のコンストラクターズタイトルを獲得し、9人のチャンピオンドライバーを輩出しているチームであり、通算最多勝や最多出走回数など数多の記録をもつチームです。

フェラーリの歴史はF1の歴史そのものと言っても過言ではありません。

 

 

実は元々「スクーデリア・フェラーリ」はチーム創設者エンツォ・フェラーリによって「アルファロメオ」のセミワークスレーシングチームとして創設されたチームです。

現在は逆の立場となっており、2020年現在F1に参戦する「アルファロメオ・レーシング・オーレン」はフェラーリからエンジンの供給を受けています。

スクーデリア・フェラーリのF1での歴史

1950年代

1952年-1950年に活躍した「500F2」/画像は「wikipedia」より引用

 

1950年に「F1世界選手権」が開幕した当初は、「本家」アルファロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決で幕が切って落とされました。

しかし、なかなか「本家」アルファロメオ相手に勝利を掴むことは出来ず、1950年未勝利で終えることになりました。

 

しかし、1951年イギリスGPで、フロイラン・ゴンザレスが初めてアルファロメオを破り初優勝を獲得。

この際、チーム創設者エンツォ・フェラーリが語った「私は母親(アルファロメオ)を殺してしまった」という言葉はあまりにも有名です。

 

あいにくこの年はチャンピオンを獲得することが出来ませんでしたが、この年限りでアルファロメオがF1から撤退。

1952年からはスクーデリア・フェラーリの独壇場となり、アルベルト・アスカリがチーム初のチャンピオンに輝き、翌1953年も連覇を達成。

この間のアスカリによる個人9連勝とチームの14連勝は今なお破られていない偉大な記録です。

 

1954年と1955年はメルセデス・ベンツの後塵を拝しましたが、1956年にチームに加わったファン・マヌエル・ファンジオがチャンピオンを獲得。

ライバルのマセラティが撤退した後は、F1界の盟主として英国系新興コンストラクターの挑戦を受ける立場へとなっていきました。

 

1958年にはエンツォの死児の名を冠した「ディーノ」でマイク・ホーチソンがチャンピオンを獲得しましたが、この年から新たに加わった「コンストラクターズタイトル」をヴァンウォールに奪われてしまいました。

1960年代

1962年に活躍した"シャークスノーズ"156F1/画像は「wikipedia」より引用・著者:Lothar Spurzem

 

1960年代に入ると、1961年に規定変更が幸いしてフィン・ヒルがチャンピオンを獲得し、同時に初のコンストラーズタイトルも獲得。

しかし地元開催であるイタリアGPで、ヴォルフガング・フォン・トリップスが観客席に突っ込み14名の犠牲者を出すという大惨事に見舞われました。

 

1964年にはジョン・サーティースが最終戦の最終周回での逆転劇でドライバーズとコンストラクターズの2冠を獲得。

しかし、総じて1960年代はロータスなどの英国勢に先行され、更にはチーム経営も内紛や経営不安で混乱した影響もあり苦戦した結果となりました。

 

結局経営不安によりフェラーリ社はフィアット傘下に入りましたが、スクーデリア・フェラーリはエンツォがそのままチームを保有し、立て直しを図りました。

1970年代

 

1960年代は苦戦したスクーデリア・フェラーリですが、1970年代に入ると新たに開発された水平対向12気筒エンジンが名門復活の活力となりました。

1973年にルカ・モンテゼーモロがチームマネージャーとなり、1974年にニキ・ラウダがチームに加入し、この年のスペインGPでF1通算50勝を達成しました。

 

その後1970年代後半にはチームは黄金期を迎え、1975年からコンストラクターズタイトル3連覇を達成。

ラウダも瀕死の大事故に遭いながらも1975年と1977年にチャンピオンに輝きました。

 

1979年にはジル・ヴィルヌーヴとジョディー・シェクターのコンビでダブルタイトルを獲得し、良い形で1970年代最後のシーズンを締めくくりました。

1980年代

1985年のミケーレ・アルボレートと156/85/画像は「wikipedia」より引用・CC BY-SA 2.0

 

1980年代に入るとルノーの台頭を受け、チームは1981年からターボエンジンを導入し、弱点であったシャーシ設計でもハーベイ・ポスルスウェイトを招き入れ英国式技術の導入を進めました。

その結果、1982年、1983年とコンストラクターズ連覇を達成しました。

 

しかしその陰で暗い出来事がチームに起こりました。

1982年のサンマリノGPで1-2体制を築いている中、ディディロ・ピローニチームオーダーを無視。(というより2人のドライバーがチームオーダーの解釈の違いが原因)

これに激怒したジル・ヴィルヌーヴは、次戦ベルギーGPの予選中に怒りが収まらない中精彩を欠き230km/hというスピードのまま大クラッシュし、この事故によって亡くなってしまいます。

 

さらにピローニもドイツGPのフリー走行中のクラッシュによって両足を粉砕骨折し、F1キャリアを絶たれてしまいました。

 

両ドライバーを失ったフェラーリはその後、久々のイタリア人ドライバーのミケーレ・アルボレートが奮闘しましたが、ターボ開発競争にポルシェやホンダに敗れてしまい後塵を拝しました。

 

1988年8月にはチーム創設者エンツォ・フェラーリが90歳で死去。

その1か月後の地元イタリアGPでは、ゲルハルト・ベルガーがマクラーレン・ホンダの開幕から続く11連勝を止める奇跡的な1勝を挙げ、亡き総帥へ捧げる1勝となりました。

 

1989年にはウィリアムズからナイジェル・マンセルが加入し、当時としては先進的であった「セミオートマティックトランスミッション」を実践投入。

しかし故障が相次ぎ、延べ30戦の出走で18回のリタイアを喫し、信頼性の面で課題を残す結果となりました。

1990年代

1999年カナダGPエディー・アーバインとF399/画像は「wikipedia」より引用・著者:Paul Lannuier

 

1990年にはマクラーレン・ホンダでチャンピオンを獲得したアラン・プロスが加入し、不本意な形ながら10年ぶりに“カーナンバー1”をつけました。

プロストはアイルトン・セナと熾烈な王者争いを繰り広げ、惜しくもタイトルを逃しましたが、同年フランスGPではチームの記念すべきF1通算100勝を達成しました。

 

しかし、その後はエンジンのパワー不足やエアロダイナミクスの失敗により、勝利から遠ざかり大きく低迷。

1994年のドイツGPでゲルハルト・ベルガーが優勝しましたが、これが実に4シーズン振りの勝利となりました。

翌1995年にジャン・アレジも自身F1初勝利を挙げるなど徐々に復調。

 

1996年にはベネトンから2年連続チャンピオンのミハエル・シューマッハを迎え入れ、"未来のフェラーリの黄金期"へ向けた一歩が踏み出されました。

しかしすぐに黄金期が到来した訳ではなく、1996年から1998年は勝利こそ上げ、僅差のタイトル争いを繰り広げるなど惜しいところもありましたが、タイトルを取ることが出来ないまま3年間を終えます。

 

翌1999年のイギリスGPでシューマッハは両足骨折という大怪我を負い戦線離脱となりましたが、その代役であるエディ・アーバインが奮闘。

チームメイトのミカ・サロの活躍もあり、ドライバーズタイトルこそ逃しましたが、実に16年振りのコンストラクターズのタイトルを獲得しました。

2000年代

2004年アメリカGPミハエル・シューマッハとF2004/画像は「wikipedia」より引用・著者:Rick Dikeman

 

2000年に入ると、前年負傷で離脱していたミハエル・シューマッハが復帰。

さらに前年シューマッハが事故による欠場後、同年のマシン開発を止め翌年のマシン開発を行ったことが功を奏し、コンストラクターズと合わせて21年振りのドライバーズタイトルもシューマッハが獲得しました。

 

フェラーリは豊富な資金力を発揮し、1998年に当時最先端の自社風洞設備を導入しており、それがマシン開発成功に大きく影響しております。

さらに当時のタイヤメーカーであるブリヂストンがフェラーリ向けのスペシャルスペックタイヤを用意するなどが重なり、フェラーリは2004年までドライバーズタイトルを5連覇(シューマッハ)・コンストラクターズタイトルは6連覇を達成し、「最強チーム」の名を欲しいままにしました。

 

しかし2005年に新レギュレーションに対応させるために投入した「F2005」が失敗し、フェルナンド・アロンソ+ルノーの後塵を拝す結果となってしまいました。

そしてシューマッハも2006年のシーズンを持って現役引退し、チームとして1つの節目を迎えました。

 

2007年にはシューマッハの後釜としてマクラーレンからキミ・ライコネンが加入。

シーズン序盤はマシンの信頼性に悩まされましたが、後半にマクラーレンを逆転し、ライコネンがドライバースタイトルを獲得、コンストラーズタイトルも獲得しました。

 

2008年は2006年からチームに加入していたフェリペ・マッサがマクラーレンのルイス・ハミルトンを最後まで追い詰めましたが、1ポイント差で敗れドライバーズタイトルを逃しました。

しかしコンストラーズタイトルは獲得し、2年連続でチームとしての栄光を手にしました。

 

しかしこのコンストラクターズタイトルが2020年現在で最後のタイトル獲得となっており、フェラーリは長い低迷期に入ってしまいます。

2010年代

2011年オーストラリアGPフェリペ・マッサと150°イタリア/画像は「wikipedia」より引用・著者:Tom Reynolds

 

2010年にはルノーから2005年と2006年のチャンピオンであるフェルナンド・アロンソが加入。

5勝を挙げる活躍を見せましたが、レッドブルのセバスチャン・ベッテルに4ポイント差で敗れタイトルを逃しました。

コンストラクターズでもチームメイトのフェリペ・マッサが低迷した影響もあり、レッドブルとマクラーレンの後塵を拝しました。

 

さらに2010年からの4年間はレッドブルの黄金期であり、フェラーリも総じてマシンのパフォーマンス不足に悩まされ、勝利こそするものの、メルセデスにも遅れをとったりと低迷してしまいます。

 

2014年には長年ドライバーを務めたフェリペ・マッサがチームから離脱し、フェラーリ最後のチャンピオンであるキミ・ライコネンがチームに復帰します。

しかし2014年はエンジンのレギュレーションが大幅に変わった年であり、シーズンを通して苦戦。

1993年以来の未勝利でシーズンを終えることとなってしまいました。

 

2015年にはアロンソがチームから離脱し、レッドブルからセバスチャン・ベッテルが加入

ハンガリーGPでチームとして約3年振りのポールポジションも獲得するなど、最終的には3勝を挙げるなど活躍しましたが、前年にタイトルを獲得したメルセデスとルイス・ハミルトンには及びませんでした。

 

2014年、2015年とタイトルを獲得したメルセデスは黄金期に入り、フェラーリを初め他のチームは苦渋を舐めさせ続けられます。

結局メルセデスは2019年までタイトルを完全に独占する結果となりました。

 

フェラーリ自身も2016年は未勝利、2017年から2019年も勝利こそあるもののコンストラクターズも2位が精一杯でメルセデスに離されているのが現状です。

 

シーズン前のテストでは速さを見せますが、肝心のシーズンでは結局メルセデスに及ばないシーズンが続いておりますが、2019年からは若手ドライバーのシャルル・ルクレールを起用するなどテコ入れを図っています。

 

結局2010年代の10年間ではレッドブル、メルセデスの後塵を拝し1つもタイトルを得ることが出来ませんでしたが、2022年以降には大きなレギュレーション変更も控えております。 

 

勢力図がどう変わってくるのかは予想が出来ませんが、2007年以来のタイトルを奪取出来るよう、フェラーリには頑張って欲しいところです。

最後に

ムゼオ・フェラーリに展示されるF1の歴代チャンピオンマシン/画像は「wikipedia」より引用・著者:Morio

 

スクーデリア・フェラーリは長い歴史を持ち、その中で数々の栄光を手にしてきた数少ないF1チームです。

数多くのF1ドライバーの"憧れ"であることは間違いありません。

 

近年は低迷気味であり、環境問題の観点からF1自体も今後どうなっていくのかは分かりませんが、フェラーリにはF1参戦を続けて貰いたいところです。

 

最後になりますが、この記事がこのサイト初のコラム記事となります。

今後も他のF1チームの歴史やF1マシン、F1ドライバーに関する解説もしていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

 

著・けいとも

 

参考文献・wikipedia

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